だれでも幼児期、親とかの世話になるはずだ。そのとき、親が過保護であったりするとどうなるだろうか?
過保護かどうかというのは何処で区別されるものだろうか?それは必要であるか必要でないかだけである。自分ででききることを他人が手伝うとおかしくなる。私は、親は両方存在したが、幼年期、別々に両親が住んでいた時期があったため、親が罪を感じ、必要以上に過保護になっていたのではないかと思うことがある。別に一人で歯医者ぐらいいけるのに、親がついてきた。もし何かがあったら結局のところそれまでの力しかなかったということである。歯医者に一人で子供がいって、なにかがおこるのだろうか?誘拐されるのか、それとも、なにか予期しないことに子供が対応できなくて、路頭に迷うのか?
このことがいまだに邪魔をしていると思う。親からは離れたとしても、会社の保護、国の保護になっていたとしたら、構造は何も変わらない。ようは予想不可能のことに対して対応できない人間になってしまうのだ。予想不可能のこと、それは結局のところ全てでないだろうか。予想不可能のことに対処できないとは、未来に向かってすすめない、ということと同意語だろう。なぜなら、未来とは予想不可能で、予想可能であれば、変化がないことになり、その人の成長はなく、時間がとまっている、ただ単に老化しているだけだからた。
いまだに守られた、プライド&イメージから抜けられないのは、幼年期につくられたイメージを保護しているからだろう。イメージは近未来に獲物を獲得する技術であって、それに縛られるものではない
2007年8月12日日曜日
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