2007年8月12日日曜日

親の保護の下でそだつということ

だれでも幼児期、親とかの世話になるはずだ。そのとき、親が過保護であったりするとどうなるだろうか?
過保護かどうかというのは何処で区別されるものだろうか?それは必要であるか必要でないかだけである。自分ででききることを他人が手伝うとおかしくなる。私は、親は両方存在したが、幼年期、別々に両親が住んでいた時期があったため、親が罪を感じ、必要以上に過保護になっていたのではないかと思うことがある。別に一人で歯医者ぐらいいけるのに、親がついてきた。もし何かがあったら結局のところそれまでの力しかなかったということである。歯医者に一人で子供がいって、なにかがおこるのだろうか?誘拐されるのか、それとも、なにか予期しないことに子供が対応できなくて、路頭に迷うのか?
 このことがいまだに邪魔をしていると思う。親からは離れたとしても、会社の保護、国の保護になっていたとしたら、構造は何も変わらない。ようは予想不可能のことに対して対応できない人間になってしまうのだ。予想不可能のこと、それは結局のところ全てでないだろうか。予想不可能のことに対処できないとは、未来に向かってすすめない、ということと同意語だろう。なぜなら、未来とは予想不可能で、予想可能であれば、変化がないことになり、その人の成長はなく、時間がとまっている、ただ単に老化しているだけだからた。
 
いまだに守られた、プライド&イメージから抜けられないのは、幼年期につくられたイメージを保護しているからだろう。イメージは近未来に獲物を獲得する技術であって、それに縛られるものではない

2007年7月4日水曜日

じこへの語りについて

なにか不満材料があると自分自身へのかたりがスタートする。
「弁護士」
「親」
「家内」
「DJ」
それは、自己の正当化、自己のイメージの保守が、不満足なので、自分の中で充足しようとする。
このことは、私としては、無駄なのだ。自己を正当化する必要があるのだろうか?自分は正しい、いつも荘感じる必要があるのだろうか?イメージをまもる必要があるのだろうか?
すべてないだろう。これは心と頭脳の関係によって生まれるイルージョンであるように感じられる。
心は深く書くされ存在している。頭脳は、情報を計算している。
これを打ち破るのはやさしくはない。なぜ正当化する必要があるのか。どうして、自分のイメージ、プライドを保持する必要があるのか、がわかれば、消えるのだろう。それまでの間の問題。

2007年6月11日月曜日

running nose

running noise sence I entered the work room .
weather : rain
etc : I am well except runnign nose.

2007年6月10日日曜日

runnig nose serious

runing nose serious
weather : rain
etc : chest is no problem

2007年6月5日火曜日

feel bad

condition: a little bad w/ cough ,sour on my chest
weather : cloud
do : yoga ,swim
etc: previous day ,just out of medicine.

2007年5月30日水曜日

2007年5月27日日曜日

no problem

condition : no problem ,but still a bit bad on my chest
practice : yoga ,herb tea

2007年5月25日金曜日

have a cough

weather : rain
chest : a littel heart
cough : a little
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yoga
swiming